【短編小説】秋蝉

雨が残した潤いを喜び、千の草木は日照りに葉を広げた。(あさ)(もや)は晴れ、(せみ)時雨(しぐれ)が森を騒がす。

土の中の小さな空間で、一匹の蝉の子が目を覚ました。どこからか蝉達の勇ましい鳴き声が(かす)かに聞こえる。蝉の子がそれを聞くと、自らもそうして競い鳴くのだと、遺伝情報が教えずとも知らせる。こうした本能的欲求は、本来は蝉の子を自ずと土の上へと向かわせるものだが、この蝉の子はすぐに土から出ることを躊躇(ためら)った。目覚めたばかりで、あんなにも勇ましい蝉達の中に急に身を投じた所で、自らの鳴き声など取るに足りないかも知れない。そう気を弱くした蝉の子は、少しでも上手く鳴くために、このまま巣の中で鳴き声に聴き入り、勇ましさの真髄を掴んでから土の上に出ようと、心に決めた。

そうして一週間は過ぎた。蚯蚓(みみず)がひょいと頭を巣に出してきた。

「やあ。ここは蝉の子の家だったか」

おっとりとした口調で、蝉の子がそれに応える。

「この様な小さな家にお客様とは珍しい。どういった御用ですか」

蚯蚓は巣の大きさを確かめる様に、頭を四方八方に向ける。

「ここらの土が美味いから、食べていたところだ。通りすがりだから長居はしない、すぐに去る。お前は何をしていたのだ」

足を固く折りたたんでいる蝉の子は、微動だにせずに応える。

「私は蝉の声を聴いていたのです」

「そうだな、土の上では、もうたくさんの蝉が鳴いているぞ。お前も良い体つきに成っているではないか。さっさと土の上に出れば良いのに、なぜまだこんなに狭い所にいるのか」

「こうして家の中にいる時から、うまい鳴き方を聴いておけば、蝉と成ってから、すぐに勇ましく鳴けますから」

蚯蚓はそれまで忙しく動かしていた頭をぴたりと止め、ゆっくりと蝉の子に向いた。

「蝉がなぜ鳴くか、お前は知っているか」

(きょ)()かれた質問に、蝉の子はしばし沈黙し、応える。

「勇ましく鳴く理由ですか、そんなことは考えたことがありません」

蚯蚓は向けた頭をそのままに、淡々と話を続ける。

「雄が雌を惹きつけ、子を残すために鳴くのだ。そこには競いが生まれる。つまり、雌から見向きもされない雄がいるということだ。同じ立場の雌もいるだろう。そうした競いの場に躍り出るのは大変なことだろうから、雌蝉から相手にされないことを恐れてこの家に留まり続けるのは、仕方ないとも言えるだろう。しかし恐れることはない。私からしてみれば、蝉は鳴けるだけ素晴らしい。異性に自分の居場所を知らせられる。蚯蚓は鳴けないから、他の蚯蚓に出会うことなく死ぬ蚯蚓もいるのだよ。そう言えば、雌雄同体の蚯蚓はどう恋愛するのかと、最近団子虫(だんごむし)から聞かれたな。私からすれば、性別があるために、異性同性に恋愛対象の壁を設けることこそが不思議だがな。雄であろうが雌であろうが、仲良くなった者と心と血の繋がりを持てるだけで、とても素晴らしいことではないか」

蝉の子は(なる)(ほど)と思う(かたわ)ら、雌蝉から相手にされないことを恐れて巣の中に居続けていると勘違いされ、段々と腹が立ってきた。鳴くこともできない者に、鳴くことについて知った様な口を利かれている。静かな巣に突然湧いて出た、招かれざるこの不条理に、蝉の子は納得がいかない。

「それはそれは、蚯蚓も大変なのですね。ただ、私は恐れてなどいませんよ。むしろ負けん気に満ちています。蚯蚓さんには分からないでしょうが、恐れているというのは、逃げ出す様な蝉にこそ相応しいのではありませんか。私は逃げてなどいませんよ」

思いがけない反論に、蚯蚓は謙虚に改まった。

「失礼、頭ごなしな発言であった、傷付けるつもりはない。私はただ、どんな虫も姿形は変われど、子孫繁栄に問題を抱えている事実を分かち合いたかっただけだ。お前の話をもっと聞くべきであったな。その、負けん気に満ちていると言うが、土の中にいて、土の上にいる奴らに勝つことはできるのか」

仕方なしとばかりに、ため息混じりに蝉の子は応える。

「できる限り練習をした上で、表舞台に立ちたいのですよ。手本としていた蝉達と太刀打ちできる様に、すぐには成れません。蝉と成った後ではなく、蝉の子である間に、出来るだけ鳴く練習をした方が、後が楽だというものです」

それを聞いた蚯蚓は何かを言いかけたが、言葉を飲み込む様にうなだれた。数秒の間を置いて、再び蝉の子を向き、ゆっくりと言う。

「初めから完璧を求めすぎてはいないだろうか。上手く鳴けない自分を晒け出すことを恐れて、実際の表舞台で経験を重ねる機会を自ら削ぎ落としている様に私には思える。動けばこそ、動き方が分かるのに。鳴けばこそ、鳴き方が分かるのに。お前は、動いても鳴いてもいない。鳴いた後の心配を今からして何の意味があるだろうか」

自ら気付いてもいなかった思慮の浅はかさを露呈され、自尊心を傷付けられた蝉の子は、胸を締め付けられる思いがした。蚯蚓に返す言葉を懸命に探すが、全く見つからない。

蝉の子は雌蝉から相手にされないことを恐れたのでも、完璧ではないことを恐れたのでもない。上手く鳴けない醜態を晒して自分が惨めに見られることを恐れたのだった。そして実りある経験を不意にして、巣に留まり続けた。その元凶は、無意識下に潜む高慢であった。高慢であるがゆえに、蝉の子はそれを省みることはなかった。

蝉の子の頭に、ふと、恐ろしい疑念が浮かんだ。今まで、巣の中で無駄な下準備を延々と行なっていたのではないだろうか、そして、その過ちを取り返そうにも、すでに時は経ち過ぎているのではないだろうかと。募る不安が焦りを焚き付ける。蝉の子はそれを悟られない様に平静を装った。

「他がどうしようが関係ありません。私は私のやり方でやりますから」

蝉の精一杯な空威張りが、巣に(むな)しく響く。蚯蚓がまた口を開く。

「そうして時間をかけ過ぎて、夏が終わらないと良いのだけれど」

話してもいない疑念を更に畳み掛ける様に指摘され、蝉の子は蚯蚓と一緒にいることが耐えられなくなった。これ以上、自らの理屈の(ほころ)びを(さら)して、また侮辱されてはひとたまりもない。努めて新たな話題を口に出さず、会話を終息に向かわせる。

「分かっています。大丈夫ですとも」

「そうか。分かっているのなら良い。突然来て申し訳なかった」

「いえ、有意義な時間でしたとも。またどこかでお会いしましょう」

「ええ、そうしましょう」

蚯蚓の気配はやがて遠くへと消えていった。去りゆく蚯蚓との別れを、蝉の子は名残惜しそうに演じ切り、内心は胸を撫で下ろした。

やっと、慣れ親しんでいる元の静寂な空間に戻った。そうして心の底に(にじ)み出た安堵こそが、この巣で過ごしてきた長い時間の現れであった。蝉の子はその安堵がとても憎たらしくなった。たかが蚯蚓一匹に図星を突かれただけで狼狽(うろた)え、(いま)だに巣の中に残り、結局の所、上手く鳴ける様になっているかは分からない。恋を謳歌している蝉達は、かつては同じ蝉の子だったにも関わらず、歴然とした差が既に開いてしまっている。蚯蚓が去った今、以前にも増して自棄(やけ)に空虚に感じられる空間に、何も得ていない自分を重ねた。遅れを取り戻すために、早くここを出なければいけない。焦りに急き立てられ、動かし方すら知らなかった脚をちぐはぐに藻掻(もが)く。巣のあちこちに不意に脚が当たる度に、壁や天井が削れ落ち、不愉快な土が腹に積もった。

また長い時間が経った。蝉は倒れては起きてを何度も繰り返した。積もる苛立ちはついに我慢の限界を超えた。蝉の子は壁を叩き付けようと前足を高く振りかざす。その拍子に前足が天井にぶつかり、崩落した土の塊が蝉の子の顔を覆った。土を払いのけると、突如として蝉の子の複眼を眩ゆい光が襲う。真っ白い景色が次第に色彩を(まと)っていく。無限遠まで続く青空に(かす)れた白雲が(むら)を作り、輝く緑が躍動している。闇の縁から覗く光景は、燦然(さんぜん)とした歓喜に満ちていた。光を初めて感じた蝉の子は、ここが本来、自らが住むべき世界だったのだと知った。蝉の子は開いた穴に向けて、しっかりと身を乗り出し、歩んだ。

 どこまでも高い(けやき)、通り過ぎ様に香る金木犀(きんもくせい)、腹を撫でる(こけ)。全てが新鮮に映る森の中を、蝉の子は落ち葉を掻き分け、大地を踏み進む。巨木を登るにつれ、後悔や喜びなどの感情の一切が消えていく。蝉となるための本能に身を委ねる。枝に止まると、力一杯に外皮を突き破り、窮屈に折り畳まれた羽を広げた。

蝉の子は羽化し、蝉に成った。

ついにこの時がやってきた。そう意気込んだ蝉は、今までの鬱憤(うっぷん)を晴らすべく、持てる力を試す様に、鳴いた。
「ジージジジ」

余りにも見窄(みすぼ)らしい自らの鳴き声に、蝉の自信は打ち砕かれた。巣の中で多くの鳴き声を聴いたことで、良し悪しを聴き分ける耳と理想は肥えていたが、その分、実力が伴わない自らの鳴き声が、より貧相に感じられた。

「耳を養えたからこそ、巣の中での時間は有意義なものだったんだ。勇ましさを知っていれば、勇ましい声はすぐに出せるだろう」

そう言い聞かせて、蝉は自らを(なだ)(すか)す。しかし、更に恥を晒すことを恐れた蝉は、余所目(よそめ)を避けてこの場を去ろうと、既に充分に乾いた羽を広げ、一気に羽ばたいた。不安定に浮いて加速する体。勢い余って幹に頭をぶつける。蛇行し、姿勢を保つ試行錯誤をしながら、蝉は遠くへと飛んでいった。

 蝉が辿り着いたのは森の端。目の前には青々とした草原が見渡す限りに広がっている。森に住む者達はここまでは来ないだろうと考えた蝉は、ここを練習場(れんしゅうば)として、鳴いた。

「ジーンジージジ」

こうではない。

「ジーンジーンジージジジ」

もう少し短く。

「ジーンジンジンジン」

もう少し最後を伸ばして。

「ジーンジンジンジーン」

コツを掴みかけている蝉に、どこからか艶やかな声が掛けられた。

「良い鳴き声ね、あなた」

鳴くことに没頭していた蝉は我に返り、声の主を見る。向かいの幹に一匹の雌蝉がいた。じっとこちらを見ている。

「何を見ているんだ、あっちに行け」

他の蝉に見られまいと遥々(はるばる)移ってきたにも関わらず、醜態を目撃され、蝉は恥を取り繕う。雌蝉が慈しみを含んだ笑みを返す。

「あら、折角声を掛けたのに邪険にするなんて連れないわね。もう少し聴かせてくださらないかしら」

蝉は雌蝉の言葉が嬉しい半面、応え方に戸惑い、一瞬だけ思考が止まる。無言を恐れた蝉は訳も分からず咄嗟に返答する。

「私は聴かせようとここで鳴いていた訳ではありません」

「何を言っているの。聴かせるために鳴かない蝉なんていないわよ」

「それはもちろんそうですが、そういう意味ではありません。練習をしていたのです」

雌蝉は含み笑いの後に応える。

「なら、練習の成果を聴かせてみせてちょうだい」

雌蝉の強引な要求に半ば押し切られ、蝉は鳴く。

「ジーンジンジンジーン」

雌蝉は満足そうに満面の笑みを浮かべる。

「ええ、とても良いわ。あなた、おいくつかしら」

「蝉と成って二日です」

「若いのに大したものね。しっかりと鳴けているもの。勇ましくて、それでいて繊細、脆く壊れそうな程にね」

たった一度鳴いただけで、心の底を見抜かれている様な気がした。思いがけない出来事に、蝉は戸惑い、胸が高鳴る。

「それはどういうことですか、あなたはどなたですか」

「感じたことを言っただけ。それ以上でもそれ以下でもないわ。良い鳴き声が聞こえたから、少しだけ聴いていたかったの。ごめんなさい、お邪魔したわね。もう時間がないの、行かなくちゃ」

他所を向き、去ろうとする素振りを見せる雌蝉を引き留めようと、蝉は重ねて尋ねる。

「時間がないとはどういうことですか」

雌蝉は物憂げに微笑み、語りかける。

「そう。蝉と成って二日ということは、生まれて背負った運命の残酷さにまだ気付いていないのね。なら教えてあげる。この森の蝉はもう老いたわ。私も役目を終えた。あなたにも少しだけ興味が湧いたけど、もう一緒には成れないわ。もう少し早く出逢いたかった。伴侶を見つけるのなら、森の中に急ぐことね。あなたならきっと見つけられるはずよ」

それまで醜態を晒すことを恐れていた自分が急に馬鹿らしく思えた。理想に程遠い鳴き声でも、魅力を感じてくれる雌蝉が少なからず一匹は存在する。その事実を知れただけで、救われた気がした。気付かせてくれたこの雌蝉と(つがい)になりたいと思ったが、他を寄せ付けぬ高貴な覚悟を感じた蝉は、深追いせずに好意を胸に仕舞い込んだ。

「ありがとうございます。勇気が湧きました。精一杯鳴いてきます」

「ええ、そうすると良いわ。行ってらっしゃい」

蝉は雌蝉を一瞥(いちべつ)し、羽を広げ、森の中心へと飛んでいった。それを見届けると、幹を掴んでいた脚は力を無くし、雌蝉は地面に落ち、静かに羽を震わせた。 

 森にぽっかりと開けた湖のほとりに、(けやき)が密生している。蝉はその内の一本に止まった。木にぶつかることはもうなかった。

「ジーンジンジンジーン」

自信に勢い付いた蝉は大声で鳴く。全ての雌蝉が振り向かなくても良い、自分の鳴き声に惹かれる雌蝉が一匹さえいてくれればそれで良い。雌蝉が誰も寄ってこないことなど、蝉は全く気に留めることなく、鳴き続ける。雄蝉達の鳴き声を聴き比べて作り上げた勇ましさの雛型(ひながた)など、蝉にはもう関係なかった。

 そうした蝉の様子を見て、根本の隙間から鈴虫が顔を出し、声を掛けてきた。
「リーリーリー。ねえ、そこのお方、お名前は」
「蝉でございます」
「蝉さんには初めてお会いしましたよ。なんと勇ましく鳴かれるのでしょうか。私は鈴虫と言います。日差しの中では休んでおくのが一番ですが、どうにもあなたの鳴き声が気になってしまってね。こんな鳴き声、今まで聞いたこともございませんから」
()められたことへの照れ隠しに蝉は大声を出す。
「そう言っていただけて光栄です。この日のために、必死で鍛錬してきた甲斐(かい)がありました」

鈴虫は深く頷き、穏やかに返答する。
「蝉さんの勇ましい鳴き声、是非私に真似させていただきたい。どうにも私達鈴虫の鳴き声というのは、勇ましさに欠けて困ります。華麗と言われれば私も嬉しいものですが、今はそれだけで雌を魅せることは出来ないのです。モテる鳴き方にも流行り廃りがありますし、かなり切実です。他の雄から抜きん出る何かが欲しいと、いつも思っているのです」

紳士的な態度の鈴虫が私的な悩みを打ち明けたことに、蝉は事の重大さを感じた。
「それはそれは、どの様にお役立ちできるかは分かりませんが、私は構いません。鈴虫さんが蝉を真似したらどうなるのか、聴いてみたいものです」
「ありがとう。例えば、こうですかな」
そう言うと、鈴虫は羽を擦り出した。
「リーリーリー」
蝉は思わず吹き出して笑う。
「ははは、全く変わっていませんよ。どこが変わったのですか」

鈴虫は釣られて苦笑する。
「はは、すぐには変わらないものですね。また機会があったらご覧に入れましょう。それまでに、蝉さんを驚かせる程、勇ましく鳴ける様に成っていますから」
「ええ、そうしてください」
鈴虫は日差しを避ける様に、再び木陰に身を隠した。蝉は初めて会った鈴虫との会話の余韻を楽しみ、また鳴き続けた。

 

それから数日が経った。初めこそ、鳴き声に応じる雌蝉が現れないことを気に留めてはいなかったが、時と場所を変えて渡り鳴いても雄蝉にさえ出会うことは全くなく、蝉は多少の焦りを感じ始めていた。少し変わったことをしよう、高台の場所に移り、静かな夜であれば、鳴き声は遠くまで届くはず。そう思い、眠気を(こら)えて試してみたが、鈴虫の気配くらいしか感じられなかった。夜鳴きを終え、休息を得るために樹液の餌場へ訪れた。昼間とは打って変わり、普段あまり顔を合わせない髪切虫(かみきりむし)と蛾が蜜を吸っている。
「こんばんは」
蝉の和やかな呼びかけに、髪切虫は蜜をすする音を散らしながら、上目遣いで応える。

「蝉か、珍しいな。まだ一匹いたのか」

努めてにこやかに蝉が応える。
「やはりここらでは蝉は珍しいですか。ここ何日か鳴いていますけれども、他の蝉に全然巡り合わないのです。どこか、蝉が多くいる場所はご存知でしょうか」

その言葉を聞き、髪切虫と蛾は密を吸うのを止め、横眼で見つめ合った。蛾は居直り再び密を吸い始め、髪切虫は口の周りを前足で拭うと、蝉を真っ直ぐ見る。
「お前、本気でそんなことを言っているのか」
「どういうことですか」

唐突な問いに、蝉は苦笑いを浮かべる。
「蝉になってどのくらい経つ」

想定外の質問に、蝉は何と無く応える。

「二週間くらいでしょうか」

蛾は我関せずといった様子で無言でそっぽを向いて蜜を吸い続ける。髪切虫は小さく二度頷いた。
「本当に何も知らない様子だな。私達髪切虫は蝉よりも長生きだから、事の顛末を見てきた。今、他の蝉達がどこにいるのか、知りたいか」
「ええ、是非とも」

無知で無垢な目をした蝉に、髪切虫は心を痛めたが、真実を伝えるべく、ゆっくりと口を開いた。

「蝉達は、もういない。皆、死んだぞ」

理解を超える事実を突き付けられ、時が止まった様に蝉は絶句した。今こうして生きて(つがい)を見つけ出そうとしている自分自身の存在意義を否定されかねない言葉を、どう解釈しようとも、良い結論が導き出せない。信じられない蝉は、恐る恐る尋ねる。

「それは有り得ません。この間、雌蝉に出逢いました」

「それはいつの話だ」

「数日前です」

「そうか。ではここ最近はどうだろう」

「会っていませんが、それがどうしたというのです。知らないだけで、生きている蝉はいるかも知れないですよ」

「なら、鳴き声はどうだ。蝉に成ってから、自分以外の雄蝉の声は全く聞いていないだろう。聞こえるのは鈴虫の鳴き声くらいだ。蝉は皆、暑いところが大好きなんだ。だから夏に出逢いを求める。だが、もう秋になっちまった。他の蝉を探すのなら、空は見なくて良い、地面を見ろ。そこら中に転がっているはずだ」

蝉は応えに窮した。確かに、蝉に成ってから、雄蝉の鳴き声は一切聞いていなかった。森の端や湖など、ある程度この森の広範囲は移動してきた。そう自負する蝉にとって、鳴き声が届く範囲から考えても、蝉の鳴き声が今まで耳に入らないのは不自然であった。しかし、蝉にとってそれは到底認められない。認めれば、鳴く意味を失ってしまう。そもそも、他の蝉に会いたいだけなのに、なぜこんなにも、髪切虫は他の蝉達が死んだことにしたいのだろうか。気を逆撫(さかな)でする髪切虫の態度に、蝉は怒りを沸き立たせた。

「では仮に、皆が死んでいたとしたら、あなたは私に何を言いたいのか。私が土の中に居過ぎたとでも言いたいのか」

髪切虫は心外な応えが返ってきたことで、少し声を荒げた。

「そんなことは知らない。私は蝉が多くいる場所がないかと聞かれたから、事実を答えただけだ」

髪切虫の意図を見当違いに早合点して気を悪くさせ、聞きたいことが聞けなくなることを恐れた蝉は、しおらしく態度を改めた。

「なら、可能性が少しでもあるなら、会える場所を教えていただけないでしょうか。雄や雌などもう関係ない。私は蝉に会いたいだけなんです」

髪切虫は困り果て、蝉を諭す。

「だから、言っているだろう。もういないんだ、本当に」

光明がない話に進路を妨げられている様な気分がして、無意義なこの場に蝉は嫌気が差した。

「そんなことは聞いていない!もういい。あなたに聞いても(らち)が明きません。自分で探します。失礼する」

髪切虫の返答を待たず、蝉は勢い良く舞い上がり、どこへともなく飛び去った。

闇夜の中をただ一匹、宛てもなく風を裂いて飛んでいく。漆黒の森を見下ろしていると、この世には自分しかいない様に感じられた。孤独を涙と共に置き去りにしようと、力の限りを振り絞り、全速力で進んでいく。雌蝉の言っていた、生まれて背負った運命の残酷さの意味が、今分かった気がした。体力の限界を迎え、次第に高度を下げていく。眼下には見覚えのある湖が見えてきた。湖畔の欅に止まると、無心で鳴き始めた。

「ジーンジンジンジーン」

手応えを全く感じないが、他にすべきことが見当たらない。蝉は懸命に鳴く。

「ジーンジンジンジーン」

蝉は(つがい)を見つけるために鳴くことを辞めたくはなかった。少しでも可能性が残っているのなら、その希望に持てる全てを掛けたかった。例え、その身を滅ぼそうとも。蝉はいつまでも鳴き続けた。

 

それから数日は過ぎた。斜陽に照らされた森に、蝉の鳴き声が一つだけ響き渡っている。
「ジーンジンジンジーン」

声を鳴らす腹弁は激しく摩耗し、片方は欠けている。憔悴(しょうすい)した蝉は休息を得ようと、強張った脚を引きずって幹をゆっくりと降り、木の窪みから蜜を吸い出した。

そこへ、麓から蝉を呼ぶ声がした。
「蝉さん、お久しぶりです、鈴虫です」
ゆっくりと口を離すと、蝉は木の下の方へぼんやりと目を落とす。
「ああ、いつかの鈴虫か。そこで何してる」

鈴虫は興奮気味に話す。
「あれから蝉さんの鳴き声を真似ていたのですが、これが雌に大人気でして。今では雄の間では蝉さんの鳴き声を真似するのが流行っているくらいですよ」
すると、隣にいた別の鈴虫が言った。
「俺も真似したら、もう好評よ。蝉さんよ、ありがとさんね。おかげで子供を授かった」
それを聞いた蝉は、優しく微笑んで応えた。
「それは良かったな。私の鳴き声など真似をして、何が良いのかと思ったが、思いもかけず、そんなことがあったんですね。鈴虫さん、聴かせていただけませんか」

待っていたとばかりに、鈴虫は得意気に羽を擦る。
「容易い御用です。リーリーリー」
呼応して、一匹、また一匹と、蝉を真似たらしい鈴虫が鳴き出す。
「リーリーリー」
「リーリーリー」
蝉にとって、鈴虫の鳴き声が以前とどう変わったのか、全く判別がつかない。それでも、自分のために声色を披露してくれる鈴虫達がとても愛おしい。
大分(だいぶ)、勇ましくなりましたね」
そう言って、蝉は鈴虫達の輪唱に聴き入る。しかし、それも長くは続けられないと、蝉は分かっていた。拭えぬ睡魔に取り憑かれ、()ちそうな意識を(こら)えていたが、疲れ切った蝉は、もうこのまま眠ってしまいたかった。掴んでいた幹を静かに離す。落下した蝉は、もう二度と動くことはなかった。

蝉の死骸の(かたわ)らで、蚯蚓がひょいと頭を出した。

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